益子焼の歴史について

益子焼の歴史について

 

栃木県芳賀郡益子町は、栃木県の東南部に位置しております。

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益子で焼き物が製造されたのは、古く奈良朝にまでさかのぼります。その後、変遷は明らかではありませんが、嘉永6年(1853年)当時26歳だった「大塚啓三郎」氏が、根古屋(益子町益子)に窯を築き、陶業を始めたのが益子焼の始まりとされています。益子は嘉永時代に那須黒羽藩の支配下にあり、当時の代官「三田弥平」が益子に着任し、大塚啓三郎を始めとして農耕の傍ら製陶を行う者たちが代官の目にとまり、藩の産業として保護奨励の策がとられ、日常台所用品として、江戸市場へと販路をひろげました。陶祖「大塚啓三郎」が生まれた福手町(現在の茂木町)は、茨城県笠間市に近く、交流も深かったことや、寺子屋教育を受けた笠間の宝田院慈眼寺住職「大関雄山」が焼物に関係していたことから、大塚啓三郎一緒に窯場を訪ね陶芸の技法を覚えたようです。

 
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大正13年に「故浜田庄司」が、益子に定住され、益子焼の素朴な製法とその伝統美を浜田氏の作品を通して昂揚され、益子焼が広く注目を受けるようになり、浜田氏を慕って益子町に活気が出てきました。現在、町内には400余りの窯元を数えるまでに発展し、国内外からも陶芸志願者が多数訪れる町になりました。

益子焼の特徴は、厚手の素材に茶・黒などの釉薬で大胆な構成の絵付けをするのが特徴で、茶器や花器、酒器や皿など実用器が主体ですが、現在は、様々な釉薬、技法が研究、用いられ一見益子焼とはわからない陶器も沢山でてきましたが、器本来の機能である「使いながら楽しむ」ことが益子焼の一番の醍醐味といえるでしょう。昭和54年8月には国の伝産品に指定され、日本を代表する焼き物の産地として定着しました。